宮本視点
時々、仕事をしていると逃避してしまいたいと、強く思うことがある。
煮詰まっていた、という訳じゃないと思う。
そこまでタイトなスケジュールではないし、曲作りは順調だった。
樹は夏休みの前半はアルバイトを多めに入れると言っていた。
だから、という訳ではないが、俺もひたすら仕事をしていた。
とはいえ、学校が無いのでバイト帰りに度々俺の家に寄っている。
確か明日はシフトが入っていないと言っていた。
思い出してしまうと、いてもたってもいられなくなり、一人でいそいそと準備を始めた。
こう、学生時代の夏休みに戻った気分で準備はとても楽しかった。
バイトが終わったと樹から連絡が入る。
一緒に出掛けようと伝える。
純粋なデートは数える位しかしたことがない。
心なしか、スマートフォンから聞こえる樹の声が弾んでいて、そうだよな、樹は大学生なんだって改めて思う。
あまりにも一緒に出掛けてない事を、少々悔やんだ。
慌てた様にして樹が返ってきたので、シャワーを浴びたら出かけようと言う。
一日バイトをして疲れているかな?と少し心配になるが、頬を上気させて楽しみですというのが目にも表情にも表れている樹を見ると、こちらが心配しすぎだということに気が付いた。
シャワーを浴びて、俺の家に置いてある服に着替えた樹を助手席に乗せる。
あまり使っていないのだが、一応車は持っている。
外国製のスポーツカーなんていう恰好の良いものではないが、気に入っている。
アクセルを踏み込んで高速に乗る。
「寝ていていいよ」と声をかけると、申し訳なさそうに樹がこちらを見た。
薄暗くなり始めている高速道路は、道路照明灯のオレンジ色がぼんやりと光っている。
隣からはすぐに寝息が聞こえてくる。
樹が起きる頃には目的地につくだろう。
フリーになって、休みと仕事の境界が曖昧になっていたのでこういう、夏休みだなというのは少し嬉しい。
目的地に着いたのは午後9時を少し回ったところだった。
樹の肩を軽くとんとんと叩くと、パチリと目があく。
「おはよう。着いたよ。」
目的地はとある海岸だった。
日が沈んでしばらく経ったそこは人気もまばらだ。
1組、花火をしている大学生らしいグループが居るくらいで他は誰もいない。
二人で車から降りる。
樹がぐっと伸びをした。
しなやかな体は、最近鍛えているらしい。
歌のための筋トレを兼ねているということに気が付いているけれど、それについて言及したことは無い。
「少し、歩こうか。」
樹に言うと、ハイと帰ってきた。
海水浴場から少し離れた砂浜は街灯が疎らにあるだけで、暗い。
波の音が、ザザッ、ザザッとしている。
海風が涼しくて、潮の香りとそれから少し湿った砂がスニーカーの裏とこすれる感じ。半分雲で隠れてしまっている空は少し残念だが、雲の間から月も見える。
横を静かに歩く樹にそっと手を出した。
「だ、誰かに見られたら……。」
小さな声で言う樹に「暗いし、そもそも誰もいないし。」と笑いながら言った。
おずおずと差し出された樹の手に自分のそれを絡める。
所謂恋人つなぎというのものを外でしたのは、生まれて初めてかもしれない。
繋がれた手をみて、思わず口角が上がる。
会話はなかった。
闇の中、お互いの顔もはっきりと見えない。
だけど、繋いだ手から伝わる熱は確かに樹のものだった。
歌が聞こえた。
その歌声の主は確認するまでもなく、横を歩いている樹だった。
所謂鼻歌という程度の小さな音量の旋律だった。
波の音にかき消されてしまいそうなその音は、確かに隣の俺には聞こえてきて。
その曲は、以前自分が作ったもので、音声合成ソフトを使って女の子向けに作ったものだった。
女の子二人が歌うテクノポップ調の曲だ。
軽快な曲調だが、それを樹が歌っている。
ゆるーく歌っているので、ほわほわとした印象になっている。
耳に心地よい音が通り過ぎていって、ああ幸せだな、と思った。
気が付くと、俺も同じメロディを口ずさんでいた。
うん、すごく気分がいい。
普段なら、ネットにアップをしたいとか、別バージョンを作ってとか、そんなことばかり考える。
それはそれで楽しいが、今はただ、二人だけでこの唄を共有していたかった。
曲が終わったところで、樹の足が止まった。
俺の方を向いて笑顔を浮かべたことが気配でわかった。
「圭吾さん、好きです。」
耳から入ったその声は、胸に響いた。
「俺も、樹が大好きだよ。」
その後は、波の音しか聞こえなかった。
了