あいつは、部屋に入ると俺を一瞥した後、そのまま男が座っていた椅子の向かいに座った。
能面のような無表情なんて初めて見た。
大学のカフェティリアで見たときは、つまらなさそうだったとはいえ、一応表情はあった。
「そこの貴方もよろしければどうぞ。」
胡散臭い笑みを浮かべながら言われた。
胡散臭い笑みはあの馬鹿の専売特許だろ?
いつもと違うその表情に胸のあたりががギリギリと痛む。
実際に歩く振動で傷んだのは腹の方だったが、よろよろとテーブルセットの方へと向かった。
馬鹿はこちらには目もくれ無かったが、とりあえず奴の横の席に腰を下ろした。
あまりの自分自身への興味の失い方に怒りとかよりも訝しむ感情がわく。
それとも、元々興味なんぞ爪の先ほども無かったということだろうか。
「それで、ご用件は?」
無駄な時間をかけるつもりは無いとばかりにあいつは話しを切り出した。
「おやおや、せっかちですねえ。
そちらの彼が無事だとわかって安心したでしょうに。」
俺の方に一旦視線をよこして、胡散臭い男は言った。
は?何?俺がここに連れてこられたと知ってこいつはここへ来た訳か?
では、なぜこんなに無表情、無感情なんだろう。
いつもであれば『心配しましたよ。貴方にもしものことがあったらどうするんですか?いえ、照れないでください。僕は当然の事をしたまでですよ。』とか何とかいって、強引にスキンシップモードに移行するだろ。
それは、自惚れや希望では無く、おおよそ半年ほど共に暮らしてきた中でのまぎれも無い事実だ。
空気を読めと言われてしまいそうだったが隣に入るあいつの腕をトントンと叩く。
すると、あいつはこちらを向いた。相変わらず無表情のままだった。
一瞬ひるみそうになってしまうが、殴られたんだし俺は被害者と繰返し呪文のように頭の中で唱える。
「一体、どういう事だよ。俺にも分かるように説明してくれないか。」
そもそも、何故俺は家の前で殴られてこんなとこへ連れ来られたのか。
はっきり言って良く分からない。
唯一、こいつ関係のいざこざに巻き込まれたという事だけは分かった。
これから、そちらの方々と何かお話がある事は分かっている。その恐らく“大切”であろう話しをこれからしなければならない事も分かっているし、明らかに空気読めて無いのも知っている。
だけど、俺はどうしてもこいつからきちんと説明して欲しかった。
それに、出来ればこいつがここまで無表情の理由も知りたかった。
「こちら○○製薬会社の風間さん。」
胡散臭い男を紹介される。
「ヤクザじゃないのかよ……。」
てっきりその筋の人達だと思っていたので拍子抜けした。
「ヤクザ、ですか?……風間さん、彼に何かしましたか?」
いつもよりさらに一オクターブほど低い声であいつは風間さんとやらに話しかけた。
「私の部下が少し勘違いをしていたようで、少し、ね。
部下は良く叱っておきますから。
本当に申し訳ありませんね。」
ちっとも申し訳なさそうでは無い様子で風間は言った。
そもそも“少し”じゃないだろう。
イラっとしたが、ここであたり散らしてもどうにもならないだろう。
現に風間という人物は俺にこれっぽっちの興味も無いようだ。
とにかく、製薬会社と言う事はあいつの研究関係の何かだろう。
そもそも、同居を始めた理由も製薬会社に付け回されていてまともな日常が送れないだったはずだ。
実際、俺自身も殴られて拉致られてきた訳だから、まともな日常が送れないというのは恐らく本当なのだろう。
「この話に、貴方にとっての不利益は無いでしょうに。
一体何が気に食わないんですか?
本当に嫌であれば、海外に移住するなり何なりするだけの富と権力が貴方にはあるはずですよ。」
溜息を一つついた後風間は言った。
「ヘッドハンティングはありがたいのですが、お受けする気は無いと何度も言っているはずですが?」
言葉こそあくまでも丁寧だが、その端々に刺々しさを感じるのは恐らく勘違いでは無い。
「しかも、彼を連れてくるというのはいかがなものかと思いますよ。
完全に犯罪行為ですよね。」
「別に大して大切でも何でもない人間なんでしょう?そこの彼。」
ニヤリ、形容するのであればそういう下衆のような表情を浮かべ風間言った。
「まあ、おもちゃ程度の認識はあるようですが……。
こちらからお電話した時もいたって冷静でしたし、そもそも貴方が本気で囲い込みたいと思ったら、彼、あんな風に外出歩いたりしてませんよね。
大切に大切にしまいこんで誰の目にも触れないようにするでしょう?」
だって、貴方は“こちら側”の人間なのだから。最後に囁くように風間という男は言った。
「それが?
そもそも、僕は貴方方に飼い殺しにされるつもりは無いですよ。」
先ほどとは違い明らかに怒気を孕んだ様子であいつは言った。
「研究データの件であれば、高梨教授とご相談ください。
僕もあの人も今はもう金銭に興味がありませんので少しはマシな交渉が出来るはずですよ。」
それだけ言うともう用は済んだとばかりに立ち上がる。
そのまま俺の腕も引き上げられ強制的に立ち上がらせた。
無理に立ち上がらせたため、腹のあたりがしたたか痛む。
つい眉間にしわを寄せてしまう。
「痛みますか?」
「少しな。」
痛いものは痛い。だが、こいつ的にはここでの用はもう済んだという事なのだろう。
だとしたら俺としてもここに居る理由は何一つない。
「行くぞ。」とあいつに小さく声をかけ、共に部屋を出た。