最初は多分、温泉から取り寄せた“湯の花”の入浴剤を使い始めた事だったと思う。
きらきらとした結晶を見て、この人はこんなところまで鉱物の様な結晶が好きなのかと驚いた。
その後もよく分からないことが続いて、それで何故かこんなことになってしまっている。
つまりどういうことかっていうと、俺を買った人が毎日俺の足を特性のオイルだか何かでマッサージしているのだ。
意味が分からない。
最初はそれをした方が駄目になる足の部分が綺麗な石になるのだと思ったし、そう聞いた。
けれどあの人はなんとも形容のしがたい表情をしただけだった。
再発した部分の断面は中の肉がうっすらと透けて見えてお世辞にも綺麗とは言えない。
いくら石のコレクターだとはいえ、そんなもの見たくは無いだろうに。
それなのに丁寧に残っている太ももの部分と反対側の足をマッサージされる。
それが、この病気の進行を遅らせるかもしれないと噂されていることを、つい最近ようやく知った。
そんな民間療法したところで意味がないこと位、よく分かっている。
そんなものでどうにかなるのであれば俺はそもそもこんなところにいない。
それに、この人は病気の進行こそ願っている筈ではないのだろうか。
だから「足の再切断についてだけれど。」と言われて、少々驚いてしまった。
この人は病気の緩やかな進行こそ願っているのだろうと思っていた。
「だって、結晶が大きくなった方がいいんじゃないんですか?」
完全に嫌味だと分かっていたけれど、言わずにはいられなかった。
このマッサージだって何か裏があるのだと思っていた位だ。
なのに、目の前の人は憤慨もせず、肯定もしない。
ただ、困ったような笑顔を浮かべているだけだ。
「君は治したいから、協力したんだろ?」
彼が口を開くまでにしばらく時間があった。
けれど、最初に口にした言葉は俺についてのものだった。
治るものなら治したい。
それは当たりの感情として持ってはいる。
だけど、この人の目的の話しをしていた筈なのに、話をそらされた様な気がした。
「俺が聞きたいのはあなたが何故こんなことをしてるかってことですよ。」
マッサージにしたって、そもそもこの人がやる必要があるようには思えない。
なのにこうやって毎日の様に、俺の部屋に来ている。
それが不思議でならないのだ。
「血行がいいと病気の進行が遅れるという傾向があるだろ?」
当たり前の事の様に男が言う。
それは事実だけれど、温めれば風邪をひきにくい程度のものだ。
それを何故この男自らやっているのか分からないという話なのに、今度は不思議そうに男はこちらを見ている。
病気に対してマイナスにならないなら別にいいだろうといった風に言われてどう返したらいいのか分からない。
この男の目的がそもそも分からなくなってしまっているのだ。
気にしても仕方がない。
この男を勝手にこっちでも利用するしかない。
そういうものだということは最初から分かっていた。
だから、意思の疎通を図ろうとすると、後でこっちがキツクなる。
そんなことは分かっていた。
なるべく、会話をしないように、自分の考えていることを何一つ知られないようにしようと思っていた。
必要な返事もはいでもいいえでもなく「はあ」とばかり返していたと思う。
それはこの男だって、多分気が付いていたはずだ。
そもそも、最初に挨拶だって碌にしていない。そういう関係を望んでいたのはこの男の方だった。
「わざわざ、何故あなたが俺にかかわるんですか?」
それは率直な疑問だったと思う。
実際の検査は医師を名乗った男がしているし、本当に全く接点がなくていいのだ。
事実ここへ来る前にこの男に会ったことは無かった。
俺が聞くと男は視線をそらして「気が変わっただけだ。」と言った。
返事としては、変なものだということはすぐに分かった。
けれど、そんな返事だったからこそ、もしかしたらこれが、この男の本心かもしれないと思ってしまった。
どう気が変わったのかを聞いたら教えてくれるのだろうか。
コレクションからペット位の気分に変わったのだろうか。
そんな風に聞くことが普通は失礼なのだろうということ位俺にでも分かる。
何を聞いたらいいのか。どうやって話したらこの男とまともに会話ができるのか。俺は何も知らない。
「石に興味が無くなった訳ではないんですよね。」
「君の足はとても綺麗だと思う。」
それは最初から変わらない。
そう男は言った。
病院でも、自分の駄目になってしまった足の部分について誰かと比較をしたことは無い。
それをすると、病状が誰よりも悪化しているのじゃないかと怖くなる。
だから、自分の結晶が珍しいものなのかも、知らない。
何故わざわざ目の前の男がそんなことを言うのかが分からなかった。
「俺の事にはみじんも興味が無いくせに。」
俺は、ガキか。
いや、ガキですらそんなことは言わないだろうという、まるで拗ねてるみたいな言葉がまた、出てしまった。
男は一瞬言葉に詰まった後「……そんな筈が無い。」と答えた。
何故、まじめに答えてるのだろうか。
だって、おかしいだろ。
思わず男を見つめてしまうと、視線をそらされる。
「そうだ、今度食事にいかないか?」
話題を変える様に男が言う。
「移動が体の負担になるというのなら、うちに料理人を呼んでもいい。」
兎に角、少しゆっくり、病気の事を忘れて過ごす時間も必要だろうと言われて、まるで友達か何かに言われる言葉みたいで少し驚く。
ただ、自分にまともに友達というものがいたのかと言われると微妙で、これが友達の感覚なのかは実のところよく分からない。
「……何か、してみたいことはないのか?」
そっと尋ねられた言葉にその時は何も思い浮かばなかった。
死にたくは無い。ということ以外あまり考えたことの無い日々だった。
何かしてみたい事、と言われても何も思い浮かばなかった。
ものすごくはまっている趣味も、仲の良い友達もいない人生だったのだ。
だから、きっと選ばれたのだということを知っている。
どことも繋がりの無い人間というのは、扱いやすい。
それなのに、わざわざ俺に聞く意味を少しだけ考えてから思考を放棄してしまう。
それも想定内なのか、曖昧な笑みを浮かべているだけだ。
どこか、と思った。
ただ、それほど体を動かしたいとも思えなかった。
「……水上バスに乗ってみたいですね。」
特に好きだった訳ではないし、何度も繰り返し乗った訳ではない。
だけど水面と岸部の景色を、何となくその時思い出してしまったのだ。
それほど望んでもいないし、明らかに歩き方に義足特有の癖が出てしまっている。
まるで二人でしたい事を聞いている様に思えたけれど、奇異なものを見る視線に晒される事を彼が許容できるのかは知らない。
口で聞いたところで意味のある類のものだとも思えない。
だから、こちらをみて「手配をしよう。」と言っている男にそれ以上何も言えなかった。
◆
連れてこられた車を降りる。
義足は使いやすいものが提供されている。
人魚病自体自分が生れるよりも昔から世界に存在している病気だけれど、ここ最近の義足の発展は著しい。
だから、別に義足でも、ある程度歩くことはできるのに、準備された車椅子を断ることが出来なかった。
船着き場の近くなのだろうか。車が止まって二人で降りる。
こじんまりした船は貸し切りにしたらしく、他の客はだれもいない。
乗り込んでしばらくすると船が出発した。
見渡す高級住宅街と公園は緑が多くて落ち着いている。
外国人墓地が近くにあると聞いたことがある。
水上バスは、川をめぐるものしか乗ったことは無かった。
ぼんやりと橋を眺めるものを想像していたので、海風が気持ちいい。
太陽に反射する水面がキラキラしているし、岸にある景色も美しく見える。
少しだけ楽しい様な気分になって、そんなことはいつぶりだろうかと思う。
「初夏には薔薇も見えるらしい。」
俺の横に立った男が言う。
名前は書類に書いてあった。けれどこの男の名を呼んだことも、逆に男がが自分の名を呼んだこともない。
別に個人である必要があった関係ですら分からないけれど、こうやって二人でいる。
これが一般的な友人関係と呼ばれるものなのかさえも俺には分からない。
「水上バス、乗ったことありましたか?」
「いや。でもこの平べったい形は結構好きだ。」
そう言われて、収集家というやつのものの見え方の違いに少しおかしく思う。
だけど……。
「俺もこの形、結構好きです。」
別に、水上バスがすごく好きで今日来た訳ではなかった。単なる思い付きだった。
けれど、それでも今日ここに来てよかったと思っている。
その位気分がよかった。
「夜には夜景が綺麗だそうだ。
今度また一緒にこよう。」
今度。
そう誰かと約束すること自体、あまり今までなかった。
思わず彼の顔を見上げてしまう。
その顔は、俺の視線が合うと、少しだけ微笑んだ。
俺の笑い方と少しだけ似ている、不器用な笑い方だった。
「そうですね。
また連れていってくれますか?」
嫌味でもなく、否定でもない言葉がするりと出た。
「勿論。」
しっかりとした返事が返ってきて、それでようやく少しだけ目の前の男との距離が縮まった気がした。
船は相変わらずゆっくりと水面を進んでいた。
了