※40万ヒットリク企画
髪の毛を切るためにつれてこられたのは、いかにもお洒落な雰囲気の店だった。
先に連絡をいれてあったのだろう。朧さんの顔を確認すると、すぐに店長と思われる男が丁寧に挨拶をしていた。
案内された個室はなんていうか金持ち用って感じの内装ですごい。
カット用の椅子以外に、ソファーが置いてありそこに座る。
それから、顧客台帳用なのだろう、名前などを書く紙を渡される。
やくざでもこういうの書くんだななんて思っていると、名前と生年月日だけ書けばいいとそっけなく隣から声をかけられる。
言われたとおりにすると、横から朧さんの舌打ちが聞こえる。
「お前、先週、誕生日だったのか。」
言われて、自分自身初めて気がついた。
そもそも誕生日に何か特別な事をする事は無い。
学校で、どこで知ったのかプレゼントをもらう事はあったがそれだけだった。
これ、お返しとかどうするんだ?と思っていた記憶しかない。
それでも高級なお菓子とか、Tシャツとかはありがたく使わせてもらっていた。
嬉しい日だったかと言われれば嬉しかったが、それだけの日だった。
だから、今年も何かをした記憶は無かったし、その日自分の誕生日だという自覚があったかすら怪しい。
「はあ。」
とりあえず、返事はしておいた方がいいかと声を出すと、再び舌打ちをされる。
何か、変な事を言ってしまったのか空気の読めない俺ではよく分からなかったので仕方が無く、美容師に言われるまま席に座る。
けれど、何を指示したらいいのか分からなかった。
振り返るようにして朧さんを見るが、助け舟はもらえそうに無い。
仕方が無く、美容師に愛想笑いを浮かべると、ひゅっと驚いたように息をのまれ、そのままゴクリと音がした。
もう一度、朧さんがいるところから舌打ちが聞こえた。
けれど、すぐに朧さんは立ち上がるとこちらへ来て、俺の髪の毛を手ですいた。
「これの髪の毛はきれいでしょう?」
そういうと、俺の髪の毛にそっと朧さんは口付ける。
その様子を、ぼーっと眺めていると、美容師は真っ赤になって「ひゃいっ」とよく分からない返事をしていた。
朧さんは色気があるからなあ、とまるで他人事のように見ていると、二、三言美容師に伝えて朧さんはソファーに戻る。
すぐに美容師はカットを始めた。
だから、朧さんの舌打ち以外の色々はすべて頭の中から抜け落ちてしまった。
◆
カットが終わると、鏡の前にいる自分は今までより少しだけ大人っぽい男みたいに見えた。
こういうのが朧さんの好みなのだろうか。
うなじの辺りを触って長さを確認しながら思う。
振り向くと朧さんはこちらを見ていて「どうですか?」と尋ねるが無視されてしまう。
けれど、彼の手には、靴が握られていて、ひょいと渡される。
「サイズは大体だが、それでとりあえずは我慢しておけ。」
ありがたく靴を履く。
二人で車に戻ると朧さんは運転席、俺は助手席に乗り込む。
「なんか、欲しいものとかやりたい事とかあるか?」
視線を合わせないまま、朧さんが聞く。
不思議に思っていると「誕生日だったんだろ」と付け加えられた。
「お祝いしてくれるんですか?」
驚いて聞くと、「そのつもりだが?」と返された。
素直に嬉しかった。好きな人にそういうことをされた事が無かったから気恥ずかしくて、そして嬉しかった。
欲しいものは何も思い浮かばなかった。
生活費は出してもらっていたし住む場所もある。
別に欲しいものは無かった。
やりたい事、と考えたところで一つだけ浮かんだ事があった。
「観覧車に乗ってみたいです。」
我ながら子供っぽいかと思った。
自分はまだしも、朧さんにとっては興味も何も無い場所だろうと言ってから気がついた。
けれど、他には何も思い浮かばなかった。
「ここからだと――」
朧さんは気分を害した様子も無く、車を走らせる。
海が見えるはずだと教えてくれたその場所は車で程なくして着いた。
見上げた観覧車は想像していたよりも大きくて柄にもなくわくわくとした。
遊園地なるものに行ったことがなかったので、この観覧車が平均的な大きさなのかは分からない。
けれど大きな円を描いて、ゆっくりと、ゆっくりと動いていた。
係員に案内されて乗り込んだ箱の中は思ったより狭くて、ごとごとと小さく機械の音がするだけでただただ静かだった。
そこは、世界から隔絶されてまるで二人きりの世界のようだった。
「どんどん高くなっていきますね。」
小窓から外を見て俺が言うと、朧さんも外をちらりと眺めた。
けれどすぐに、こちらを見る。
他に見るものが無いみたいに、狭い狭い箱の中で二人で見つめ合った。
唯一それだけしか世界に無いみたいに二人きりだった。
投げ出した足だけがわずかに触れる、そんな狭さで、お互いの息遣いだけが聞こえる。
もっと近くにいたくて、立ち上がると観覧車の籠が揺れる。
朧さんに腕を引っ張られて胸のなかに抱きこまれた。
『危ないですから、座っていてください。』
係員からの注意がスピーカーから聞こえる。
朧さんと俺は顔を見合わせて笑った。
それから、そっと唇を合わせた。
当たり前だけど、マンション以外でそんな事をしたのは初めてで、けれど、耳元から後頭部をつかむ朧さんの手はいつも通り熱くて。
何度も何度も、唇を触れ合わせて、それからようやく、朧さんの舌が口内に入ってきて、唾液がたれるのも気にならなかった。
後頭部にあった朧さんの手が背中を撫でた。
ゾクリとした感覚が背中から全身に広がる。
上あごを舌で撫でられて、いやらしい声が唇の隙間から漏れた。
ゴホッと咳払いが聞こえて、そちらに目線を送ると、観覧車の係員だった。
真っ赤になって上ずった声で、「気をつけて降りください」という係員を見て、地上に戻ってきた事にようやく気がついて、慌てて体を離す。
「行くぞ。」
ゆっくりと動き続ける観覧者から飛び降りるみたいにして降りる。
先に歩き出した、朧さんを追いかけながら、観覧車を振り返った。
相変わらず、観覧車はゆっくりと動いていて、景色も何も楽しまなかったけれど、あの、二人だけの世界にまた来てみたいと思った。
了
お題:甘々、イベント(記念日、祝日など)、唯一、第三者、見せつけ